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ネットで豊かに語り合いたい

人と豊かに語り合うことから、これからの世界をつくりたいとは思いませんか。

 

人類共通の祖先であるクロマニヨン人が生活していたのと同じ時代に、ネアンデルタール人という種も生きていたそうです。ところが、厳しい氷河期を乗り越えて生き残ったのは、クロマニヨン人だけでした。

 

なぜなら、クロマニヨン人は互いに身に着けた生き残る術を情報交換しあっていたからだそうです。つまりクロマニヨン人の末裔である私たちは、情報交換すなわち会話やおしゃべりが大好きなのです。

 

同じ会話をするのなら、人の非難や批判ではなく、できる限り良い話や役に立つ話題のほうが楽しいに決まっています。

 

人を非難したり批判するのは誰でもできます。なぜなら、人が経験する失敗の数は、成功する数よりも多いからです。”だからダメなんだよ”というような例え話は、無理して探さなくても誰でもすぐに見つかるからです。

 

大切なのは、失敗してもくじけることなく、成功を信じて続けることです。誰から何と言われようとも、確かな意思を持って自ら努力し続けることです。

 

ノーベル賞は、より安全に保管できるダイナマイトを発明したノーベルの遺言により設立されました。

 

ノーベルは当時の戦争によって大儲けしたため「死の商人」の印象が強く、その遺言さえも当初は信用されずに、5年の歳月とスェーデン国王の後押しを得て、はじめてノーベル賞とその授賞式が実現したそうです。

 

それから100年余り、ノーベル賞は人類の発展に貢献した人々に与えられる、名誉あるものとして世界中の人に認められています。

 

ノーベルを「死の商人」として非難するだけでなく、その遺志を実現させようと語り合って努力した人たちの手によって、ノーベル賞という人類共通の希望が生まれたのだと、私は思います。

 

ネットというメディアは、双方向のコミュニケーションツールです。人への非難や批判で炎上させるのではなく、人と人とがもっと豊かに語り合えるものに育てていきたいものです。

 

 

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スーパーハイビジョンで、世の中が変わるかも‥‥

BS4K・BS8Kが放送開始するそうです。それぞれの画質は今のテレビの4倍・16倍ということです。画素数で比較すると、4Kがスマホカメラの写真画像に相当し、8Kはフルサイズ1眼レフカメラの写真画像に匹敵します。写真画像の画質のまま、動画になるのですから、スーパーハイビジョンという呼び名も納得できます。

 

現在のハイビジョンは、およそ40年前に日本で開発が始まりました。当時の開発コンセプトは、”映画館の迫力をお茶の間で”であったと言われています。このためハイビジョンは、画面を横長にして、当時の映画フィルムと同じ解像度を仕様に盛り込みました。

 

つまり映画館で映画を見る臨場感をテレビで再現しようとしたのです。そのもくろみは成功し、ハイビジョンシステムはハリウッドの映画制作にも活用されて、世界中の人々にすばらしい感動を与え続けています。

 

スーパーハイビジョンとも呼ばれる4Kテレビは、ハイビジョンのさらに4倍の解像度を持っています。2012年のロンドンオリンピックでのパブリックビューイングから使われたそうで、2014年のワールドカップの時には『サポーターの息づかいが聞こえるようだった』という感想があり、その表現がとても印象的でした。

 

映像というのは、文字や音に比べて格段に情報量が多いです。たとえば、20年ほど前のパソコンでよく使っていた3.5インチフロッピーディスクの容量は1.44メガバイト。これにはワープロで作った文章ファイルを百ページ以上保存することができました。

 

音を保存するにはCDが使わており、その容量は700メガバイト。高品質な音源を1時間程度保存できます。つまり音は文字のおよそ500倍の情報量があるということです。

 

動画を保存するならDVDやブルーレイディスクが使われます。それぞれ4.7ギガバイト・23.3ギガバイトの容量があり、やはり1時間以上のテレビ放送品質の動画を保存できます。3.5インチフロッピーディスクの容量と比較すると、音を含む動画は、文字の3,000~16,000倍くらいの情報量があると言うことになります。

 

これだけ情報量が多いと、必要としている情報以外の無駄な情報が数多く混じっていると思われます。しかしながら私は、無駄と思える情報をたくさん含めることによって「ありのまま」の存在感が伝わりやすくなるのではないかと、思っています。

 

「臨場感」や「息づかい」と言われるものが、その存在感をあらわす何かであると、私は思うのです。画像による「ありのまま」の存在感は、人々を熱く感動させたり、深く興奮させたりして、前向きな気持ちをあふれさせる原動力になると、私は信じています。

 

すばらしい感動あふれる日々の生活。とてつもない希望に溢れた、なかなかの未来のように思えるのですが‥‥。

 

 
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インターネットって、なぜバーチャルなんですか?!

インターネットがバーチャルであると本気で考えている人が、いまだにおられます。元をただせば、インターネットがバーチャル空間に存在すると言われる理由は、インターネットの仕組みそのものに由来します。

 

インターネットというのは、さまざまな種類の回線を経由しているのにも関わらず、まるで一本のケーブルで接続されているように情報伝達できる通信方式を指しています。

 

つまり、送電線網や電話回線網のように、あらかじめ専用のケーブルを設置して送電や通信を行っているのではなく、既存のケーブルを拝借して「仮想の」通信網を構築することをインターネットと呼ぶのです。

 

このような経緯があるために、ネット⇔バーチャル(仮想現実)という考え方だけが残ってしまい、現実には一度も出会っていないにもかかわらず、ネットを通じて意見や想いを共有できるものが、インターネットであると勘違いされてきたように思います。

 

スマホやタブレットPCがこれだけ普及してきた現在、もはや「ネットはリアル」だと考えを改めないと、不自然なことが増えてしまうのではないでしょうか。

営業マンは、毎朝のメールチェックから仕事が始まり、インターネットで訪問先への経路を調べるのが当たり前です。インターネットは直接、リアルなビジネスへと繋がっているのです。インターネットビジネス関連の社長が、大盤振る舞いをしてテレビで紹介されるのも、もはや日常茶飯事であることにも繋がっています。

これとは逆に、インターネットがなかった時代でもバーチャル風なおつきあいは、いくらでも存在していたと思います。手紙や電話だけで成り立つ人間関係も盛んであったはずです。たとえばペンフレンドがそれにあたるでしょうし、日本の場合は、年賀状や暑中見舞いなどがあります。

 

インターネットの匿名性が問題であると考えるお方も、おられるでしょう。しかしながら日本では、ずっと以前から、匿名のおつきあいなど、数え切れないぐらい存在します。接客業で使われることの多い源氏名も、お相撲さんの四股名も、落語家の亭号や歌舞伎界の屋号も、全て本名を秘匿した、匿名のおつきあいとなります。

 

さらに、古代や中世の高貴な人々は、本名を隠して「いみな」というものを使っていたと言います。こうなってくると、ハンドルネームやニックネームで呼び合うインターネットの世界は、古式ゆかしい伝統に基づいた豊かな人間関係を育む場所ということになると言うように、私は考えています。