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片寄りのある習慣、変える勇気を持ちませんか…

関西は右側に、関東やその他の地域は左側に、それぞれ片寄って立つ習慣のあるエスカレーターですが、元々は改札やホームに急ぐ人のために、駅のエスカレーターで始まった習慣だと、私は思っています。

 

少し前までは、デパートなどの商業施設のエスカレーターでも、どちらか一方に寄って立つことが習慣になっていました。電車に乗り遅れないように一分一秒を争って登り降りする必要もないのに、不思議なことをするものだと、時々思っていました。

 

最近では、危険防止のためエスカレーター上での歩行を禁止する傾向にあります。どうしても次の電車に乗りたい人がいる以上、駅での片側立ちは仕方ないと思える反面、その他の施設で片寄り立ちをしないで欲しい一番の理由は、エネルギーの無駄遣いです。

 

二人が並んで立てるエスカレーターに一人しか立たないと、当然のことながら、エスカレーターの輸送効率は半分になります。乗る人が居なければ、自動的に停止するエスカレーターまであるのに、こんな無駄遣いが、なぜ見逃されているのでしょう。

 

関西も関東も、大きな震災を経験して、切り詰める生活を余儀なくされてきたことがあるのに、こんな無駄なことが今でも続けられているのは不思議だと思いませんか。

 

エスカレーターの場合は、その様子を見て片寄りがあることを理解することができます。しかしながら、似たようなことが、目に見にくい形で行われていたら、どうでしょうか。

 

例えば、この夏に起こった北海道の大規模停電、昨年末に見つかった新幹線の台車の亀裂による運転中止、最近では免震ダンパーの出荷データ改ざん、どれも送電効率や輸送効率、営業効率に片寄りのある運営をしていたために、リスクへの対応が置き去りにされていた例です。

 

片寄りのある習慣が残っているのは、テクノロジーの分野だけではありません。今年になって、オリンピック選手やアマチュアスポーツのハラスメント問題や、選手に対してあまりにも過酷な大会運営など、成績や伝統に何らかの片寄りがあったために発生する人間関係の問題も、数多く明らかになっています。

 

皆さん、片寄りのある習慣が残っていると感じる当事者になったときに、その習慣を変える勇気を持っていますか?

 

できることなら、そんな勇気を常々奮い起こせる人物で居たいものだと、私は考えます。

 

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ネットで豊かに語り合いたい

人と豊かに語り合うことから、これからの世界をつくりたいとは思いませんか。

 

人類共通の祖先であるクロマニヨン人が生活していたのと同じ時代に、ネアンデルタール人という種も生きていたそうです。ところが、厳しい氷河期を乗り越えて生き残ったのは、クロマニヨン人だけでした。

 

なぜなら、クロマニヨン人は互いに身に着けた生き残る術を情報交換しあっていたからだそうです。つまりクロマニヨン人の末裔である私たちは、情報交換すなわち会話やおしゃべりが大好きなのです。

 

同じ会話をするのなら、人の非難や批判ではなく、できる限り良い話や役に立つ話題のほうが楽しいに決まっています。

 

人を非難したり批判するのは誰でもできます。なぜなら、人が経験する失敗の数は、成功する数よりも多いからです。”だからダメなんだよ”というような例え話は、無理して探さなくても誰でもすぐに見つかるからです。

 

大切なのは、失敗してもくじけることなく、成功を信じて続けることです。誰から何と言われようとも、確かな意思を持って自ら努力し続けることです。

 

ノーベル賞は、より安全に保管できるダイナマイトを発明したノーベルの遺言により設立されました。

 

ノーベルは当時の戦争によって大儲けしたため「死の商人」の印象が強く、その遺言さえも当初は信用されずに、5年の歳月とスェーデン国王の後押しを得て、はじめてノーベル賞とその授賞式が実現したそうです。

 

それから100年余り、ノーベル賞は人類の発展に貢献した人々に与えられる、名誉あるものとして世界中の人に認められています。

 

ノーベルを「死の商人」として非難するだけでなく、その遺志を実現させようと語り合って努力した人たちの手によって、ノーベル賞という人類共通の希望が生まれたのだと、私は思います。

 

ネットというメディアは、双方向のコミュニケーションツールです。人への非難や批判で炎上させるのではなく、人と人とがもっと豊かに語り合えるものに育てていきたいものです。

 

 

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スーパーハイビジョンで、世の中が変わるかも‥‥

BS4K・BS8Kが放送開始するそうです。それぞれの画質は今のテレビの4倍・16倍ということです。画素数で比較すると、4Kがスマホカメラの写真画像に相当し、8Kはフルサイズ1眼レフカメラの写真画像に匹敵します。写真画像の画質のまま、動画になるのですから、スーパーハイビジョンという呼び名も納得できます。

 

現在のハイビジョンは、およそ40年前に日本で開発が始まりました。当時の開発コンセプトは、”映画館の迫力をお茶の間で”であったと言われています。このためハイビジョンは、画面を横長にして、当時の映画フィルムと同じ解像度を仕様に盛り込みました。

 

つまり映画館で映画を見る臨場感をテレビで再現しようとしたのです。そのもくろみは成功し、ハイビジョンシステムはハリウッドの映画制作にも活用されて、世界中の人々にすばらしい感動を与え続けています。

 

スーパーハイビジョンとも呼ばれる4Kテレビは、ハイビジョンのさらに4倍の解像度を持っています。2012年のロンドンオリンピックでのパブリックビューイングから使われたそうで、2014年のワールドカップの時には『サポーターの息づかいが聞こえるようだった』という感想があり、その表現がとても印象的でした。

 

映像というのは、文字や音に比べて格段に情報量が多いです。たとえば、20年ほど前のパソコンでよく使っていた3.5インチフロッピーディスクの容量は1.44メガバイト。これにはワープロで作った文章ファイルを百ページ以上保存することができました。

 

音を保存するにはCDが使わており、その容量は700メガバイト。高品質な音源を1時間程度保存できます。つまり音は文字のおよそ500倍の情報量があるということです。

 

動画を保存するならDVDやブルーレイディスクが使われます。それぞれ4.7ギガバイト・23.3ギガバイトの容量があり、やはり1時間以上のテレビ放送品質の動画を保存できます。3.5インチフロッピーディスクの容量と比較すると、音を含む動画は、文字の3,000~16,000倍くらいの情報量があると言うことになります。

 

これだけ情報量が多いと、必要としている情報以外の無駄な情報が数多く混じっていると思われます。しかしながら私は、無駄と思える情報をたくさん含めることによって「ありのまま」の存在感が伝わりやすくなるのではないかと、思っています。

 

「臨場感」や「息づかい」と言われるものが、その存在感をあらわす何かであると、私は思うのです。画像による「ありのまま」の存在感は、人々を熱く感動させたり、深く興奮させたりして、前向きな気持ちをあふれさせる原動力になると、私は信じています。

 

すばらしい感動あふれる日々の生活。とてつもない希望に溢れた、なかなかの未来のように思えるのですが‥‥。

 

 
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インターネットって、なぜバーチャルなんですか?!

インターネットがバーチャルであると本気で考えている人が、いまだにおられます。元をただせば、インターネットがバーチャル空間に存在すると言われる理由は、インターネットの仕組みそのものに由来します。

 

インターネットというのは、さまざまな種類の回線を経由しているのにも関わらず、まるで一本のケーブルで接続されているように情報伝達できる通信方式を指しています。

 

つまり、送電線網や電話回線網のように、あらかじめ専用のケーブルを設置して送電や通信を行っているのではなく、既存のケーブルを拝借して「仮想の」通信網を構築することをインターネットと呼ぶのです。

 

このような経緯があるために、ネット⇔バーチャル(仮想現実)という考え方だけが残ってしまい、現実には一度も出会っていないにもかかわらず、ネットを通じて意見や想いを共有できるものが、インターネットであると勘違いされてきたように思います。

 

スマホやタブレットPCがこれだけ普及してきた現在、もはや「ネットはリアル」だと考えを改めないと、不自然なことが増えてしまうのではないでしょうか。

営業マンは、毎朝のメールチェックから仕事が始まり、インターネットで訪問先への経路を調べるのが当たり前です。インターネットは直接、リアルなビジネスへと繋がっているのです。インターネットビジネス関連の社長が、大盤振る舞いをしてテレビで紹介されるのも、もはや日常茶飯事であることにも繋がっています。

これとは逆に、インターネットがなかった時代でもバーチャル風なおつきあいは、いくらでも存在していたと思います。手紙や電話だけで成り立つ人間関係も盛んであったはずです。たとえばペンフレンドがそれにあたるでしょうし、日本の場合は、年賀状や暑中見舞いなどがあります。

 

インターネットの匿名性が問題であると考えるお方も、おられるでしょう。しかしながら日本では、ずっと以前から、匿名のおつきあいなど、数え切れないぐらい存在します。接客業で使われることの多い源氏名も、お相撲さんの四股名も、落語家の亭号や歌舞伎界の屋号も、全て本名を秘匿した、匿名のおつきあいとなります。

 

さらに、古代や中世の高貴な人々は、本名を隠して「いみな」というものを使っていたと言います。こうなってくると、ハンドルネームやニックネームで呼び合うインターネットの世界は、古式ゆかしい伝統に基づいた豊かな人間関係を育む場所ということになると言うように、私は考えています。

 

 
 
 
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人工知能(AI)に仕事を奪われるのか

人工知能のアナウンサーが、中国で発表されたそうです。24時間休まずにニュースを読み続けることが可能なのだそうです。これが普及すれば、アナウンサーの仕事は確実に、人工知能に奪われそうですね。

 

2020年には、人工知能で自動運転する自動車が発売される可能性が、高いそうです。これが実現すれば、バスやタクシー、トラックなどのドライバーの仕事は、どんどん人工知能に奪われてしまうかもしれません。

 

将棋やチェスも、人工知能はかなりの実力を持っているようですので、このほかにも、人工知能が活躍できる仕事はたくさんありそうです。私たちは、これからどうすれば良いのでしょうか。

 

これまでは、鋤や鍬などの農業用具が発達すれば、農業生産量が飛躍的に向上したり、船や鉄道などの交通手段が整備されれば、物資の流れが増大するようになり、人々の暮らしは、そのたびに豊かになっていきました。

 

人工知能が普及したからといって、生産量の向上や物資の流れの増加に直結するとは限らないようです。人工知能によって、世界中の経済の規模が、現在より大きくなることは、あまり期待できないように思われます。なぜなら、商品やサービスを必要とする人間の数が変わらないからです。

 

しかしながら、仕事を奪われた私たちには、確実に、時間の余裕が生まれることは間違いありません。仕事が無くなるのですから、通勤時間も必要ないし、残業する必要もありません。でも、たとえ時間の余裕ができたとしても、収入が無くなることが、私たちには一番の心配です。

 

小学校への入学と同時に、国から人工知能をひとつプレゼントされるというのは、どうでしょうか。自らが勉強するのと同時期に、自分で人工知能を育てるのです。たとえて言うなら、小学校入学と同時にドラえもんがやってきて、一緒に勉強するのです。

 

高校や大学を卒業したら、人工知能と共に仕事に就きます。人工知能は24時間休みなしで働き続けますので、人工知能が働いた稼ぎは、その人のベーシックインカムになります。事故や病気によって、本人が働けなくなっても、人工知能の稼ぎは保障されるのです。

 

ベーシックインカムだけで生活したい人は、時間の余裕を満喫することが可能です。仕事で出世や名声を勝ち取りたい人は、人工知能とともに仕事に時間を費やせば良いでしょう。それぞれの人の生き方は、バラエティあふれたものとなるに違いありません。

 

人工知能に仕事をさせる未来。なかなか、楽しみなことが多い世の中になりそうだとは思いませんか。

 

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インターネット(ウェブ)への想い

 

はじめまして、ウェブ屋ルネンです。

 

私、ウェブ屋ルネンは想います。

 

はるか1万年以上も昔、私たち人類は壁画を描き、自ら勝ち獲ったものや怖れ敬うもの、あるいは自らの生活を記録し、仲間や子孫に伝えようとしました。

 

壁画は、やがて粘土板や木簡などに刻む文字に変化し、パピルスや紙の発明を経て、より遠くの仲間に、よりたくさんの記録を伝えるメディアへと発展しました。

 

600年ほど前に活版印刷が発明されると、メディアは、自らの記録を、さらに多くの仲間に素早く伝えるのと同時に、大量の複製を後世に遺すものへと、大きく飛躍を遂げました。

 

わずか30年ほど前、私たち人類は、さらに新しいメディアを手に入れました。

 

はじめは、遠く離れたコンピューターに、研究者たちが記録している文字や図表を伝えるだけのものでした。

 

しかし今では、スマホやタブレットPCさえあれば、文字や図表に限ることなく、動画・音楽・画像など視覚と聴覚に直接働きかける記録を、誰もが、世界中のどこにでも、ほぼ瞬時に伝えることができるまでに進化しています。

 

その新しいメディアこそ、あなたが今ご覧になっている「Webページ」です。
「ネット」や「IT」、「インターネット」と呼ぶ場合もあります。

 

Webページを通して、今や私たちは、世界中のいろんな都市を散歩したり、世界のどこで何が起きているかを生中継で見たり、自分の知らないことを調べたり、友人とメッセージをやりとりしたり、顔を見合わせながらおしゃべりしたりできるようになっているのです。

 

1万年の時を越え、人類が手に入れた、永遠に色あせることのないデジタル壁画、それがWebページであると、私、ウェブ屋ルネンは考えます。
地球が再び氷河に覆われてしまったとしても、私たち人類は、もう二度と、うす暗い洞穴の隅っこで、心細い思いをしながら、壁画を描かなくても良いのです。

 

今度の壁画は、わずかな電力さえあれば、いつでも好きな時に、離れた場所にいる仲間と、瞬時にありのままを、伝え合うことができるのですから。

 

「Webページ」という、このすばらしいメディアを、正しく育て、次の世代に伝えていく努力が必要であると、私は考え、このブログをスタートさせます。