カテゴリー
情報リテラシー

表現の不自由展という不自然な表現が意味するのは何か。

一切の表現の自由は、日本国憲法第21条で保障されています。それなのに、この夏から時々話題になる「表現の不自由展」は、その展示会名称そのものが不自然であるとは思いませんか。

 

もちろん、一切の表現の自由が保障されていると言っても、法治国家ですから、公共の福祉に反したり他人の人権を侵害する場合は、表現の自由は制限を受けるのは当然のことです。

 

たとえば、性的な表現や暴力行為を表現する映画が年齢制限を受けたり、殺人の過程を映像化することは犯罪とみなされる、というようなことです。これらの場合は、「制限を受けた表現の自由」と表現できると思います。

 

それでは、「表現の不自由」というのはどのような場合と捉えることができるのでしょう。おそらくは、作品を美術館に出展した製作者本人が「表現の不自由」を感じたということだけのような気がします。それぞれの美術館には、展示基準があると思いますので、必ずしも製作者本人の希望に沿った展示がされるとは思えないからです。

 

もしそうであるなら、製作者自身の一方的な主観を伴った作品を、公共であれ民間であれ美術館がわざわざまとめて展示する必要があるのでしょうか。製作者自身が個展などを主催して展示するだけで良いのではないかと、私は思います。

 

 

カテゴリー
情報リテラシー

米国大統領がSNSで世界に向けて発信する令和の時代

米国大統領のSNSでの呼びかけを契機にして、先週の始めに北朝鮮の最高指導者との緊急会談が行われました。もちろん両国官僚の水面下での事前協議があってのことでしょうが、間違いなくSNSによって現実の外交問題が動いているのです。

 

世界を支える偉大な米国の首脳として、現職の米国大統領はSNSを駆使しています。これまでの米国大統領が、米国の重要な決断に際してホワイトハウスからのテレビ中継で米国国民に語りかけていたのとは異なり、この大統領は、さまざまな話題をSNSで世界中に撒き散らしています。

 

これを異常と感じるか、進化ととらえるかどうかは、いろいろな考え方があると思いますが、政治家の努力の結果として国と国との関係性を良くしていると思えるので、私はすばらしい進化であると考えます。

 

普通に考えれば、表現を少しでも間違ってしまったら、その悪影響は限りなく増えてしまうように思えますので、リスクが大きすぎて、誰も実行には移さないと思われます。現実に、日本の政治家が炎上している例は、よく起こっているようです。

 

しかしながら、世界中の首脳や政治家が、水面下でなくSNSで自分の考えを発信するのが当たり前の世の中になれば、さまざまな問題が少しずつでも解決に向かって進むようになるのではないでしょうか。

 

少なくとも悪い状態のまま停滞するようなことは少なくなるようには、思えますよね。

カテゴリー
情報リテラシー

アポ電強盗を撃退するため、こんな方法はいかがでしょう。

アポ電強盗が急増しているらしいです。事前に電話をかけてきて資産状況などを確認してから、強盗に押し入ってくるのだそうです。

 

見方を変えると、犯罪予告してから実行するという事件なので、地域の人々との間でアポ電があったことを周知していれば、犯人は直ぐに捕まりそうに思えますが、特殊詐欺特有の手口を使うために、つい騙されてしまうのでしょう。

 

アポ電を撃退するポイントは、次のようなことなのだそうです。
①自動通話録音機を使い、通話録音することを、電話をかけてきた相手に通知する。
②自動通話録音機がない場合は、常に留守電にしておき、後で電話をかけ直す。
③家族など親族を名乗る電話はいったん切って、その後に当人に電話をかけて、本人が電話したかを確認する。
④電話をとってしまった場合でも、現金の有無や資産状況に関する話は絶対にしない。

 

①と②は、犯人が直ぐに電話を切ってしまう傾向があるために有効なのだそうで、地方自治体で自動通話録音機を貸し出している場合もあるそうです。普段から用心が行き届いている家庭と考えて、犯人の側がためらってしまうのでしょうね。

 

ところが③と④については、犯人の側も充分に対策をしていると思われますので、実際にアポ電がかかってきたときに実行できるかどうかは、不安が伴います。これには普段からの練習が必要であるように思われます。

 

 練習のポイントは、犯人側のストーリーに安易に乗ることなしに、電話を切るタイミングをつかむことです。それには、こちらから犯人に質問を繰り返すと良いのではないでしょうか。

 

通常の特殊詐欺とは違って、犯人は住所も家族構成もそれなりに調査した後にアポ電をしてきていると思われますので、こちらの事情をごまかそうとしても犯人に見透かされてしまうことが多いと考えるほうが良さそうです。

 

 それでは、どんなことを質問すれば良いのかと言うと、まずは家族や親族という犯人の”名前”を聞いてみてはどうでしょう。もちろん、家族や親族には無い”名前”を呼びかけます。犯人はこちらをだますために、ウソをついていますので、こちらも多少のウソをついても許されるでしょう。

 

万が一、家族や親族が本当にお金に困って電話をかけてきたとしても、アポ電がかかってきたと勘違いしているのだと理解できるでしょうから、電話の相手は、自分が本人であるという証拠になる話題を自ら語り始めるでしょう。

 

ですから犯人には、『おまえは、ケンイチか、コウジか、それともゴンザブロウか?』という具合に、いきなり話しかけます。犯人が下調べしていなければ、どれかを選ぶでしょうし、下調べしていれば、『何を馬鹿なこと言っているのか、※※※に決まっているだろう』と言ってくるでしょう。

 

どちらの場合も次は、その名前をどんな字で書くのかを聞けば良いと思われます。自動通話録音機や留守電で電話を切るような用心深い犯人なら、このあたりで電話を切ってしまうでしょう。通話を録音されているかもしれないと考えるからです。

 

犯人が電話を切らないようなら、次に生年月日を聞きましょう。つまり、「お前を信用していないぞ」という明らかなサインを送るのです。犯人は観念して、電話を切ってしまうでしょう。

 

犯人がこの質問にも答えてきたら、親族の名前を知っているかどうかを聞きましょう。『いつもお前を可愛がってくれていた※※のおばさんの名前を言ってくれ』といった具合です。

 

いずれの答えも、ごまかして答えないようでしたら、こちらから電話を切れば良いでしょう。万が一にも、本人が電話をかけていたとしたら、急用なのですから、もう一度電話してくるでしょうし、こちらから確認の電話をすればよいのです。こちらの資産状況を言わされてしまう前に、犯人との電話を切ることが重要です。

 

犯人が、役所などの職員や警察を名乗ってくることもあるそうです。そのような場合は、知り合いがいれば、『××課の※※さんを知っているか』と聞けば良いと思われます。知り合いが誰もいなくても、適当な役所や交番の名前に好きなドラマやワイドショーの出演者などの適当な名前を組み合わせて言ってみれば良いと思います。

 

次には『すみませんが、どこの役所の(どの部署の)何さんでしたっけ』と聞いてみます。さすがにこの質問には答えるでしょうから、すかさず犯人に次のようなブラフをかけます。『それなら課長の佐藤さんに電話をかけてみます』と。

 

犯人がごまかし始めたら、すぐに電話を切れば良いでしょう。万が一、本当に何かを役所に納付しなければならないのなら、こちらから電話で問い合わせした後からでも、全く問題はありません。

 

もし、犯人が逆ギレして怒鳴ってきたら、こちらも普段からの不満をぶちまければ良いのです。『年金は減額されるし、物価は上がるし、役所からこんな電話がかかってくるし、いい加減にしろ!』とでも叫んでみたら、少しは気分もスッキリするし、電話も切りやすいでしょう。

 

 

カテゴリー
情報リテラシー

裁判官のツイートとバイトテロ

国会の裁判官訴追委員会に事情聴取された裁判官が話題になっていました。ツイッターに不適切な投稿をして、裁判当事者の感情を傷つけたらしいです。

 

関連するブログやSNSを見させていただきました。現職の裁判官に対して失礼な言い方になるとは思いますが、その不適切といわれる投稿の本質が”バイトテロ”と同様の稚拙さにあるような印象を受けました。

 

”バイトテロ”とは、個人のブログやSNSに『わざと』不適切な言動を投稿して、ネット上で”炎上”する現象と言うことができます。この裁判官の場合には、ネット上の”炎上”ではなく、職場で”職務遂行に影響あり”との判定を受けたのです。

 

この裁判官や報道関係者は、「表現の自由を認められるべき」と主張しているようですが、それであるなら裁判官を辞して、ブロガーかジャーナリストやコメンテーターになれば良いのです。

 

裁判官という役職についているなら、裁判を通して裁判当事者が受けるストレスがどれほどのものであるかを容易に想像できるはずです。いくら個人の投稿であっても、自身が担当した裁判ではなくても、何らかの関係者が投稿を見たときにどう感じるかといった配慮を欠くようなやり方は”バイトテロ”と同様、稚拙と言わざるを得ません。

 

万が一の推測に過ぎませんが、自身が裁判官の役職にあることを良いことに、裁判当事者が名誉毀損や人権侵害で告訴しないだろうという安易な考えで投稿しているとしたら、その場合は確信犯ということになると思われます。万が一そうならば裁判官を弾劾されて当然だと考えますが、どうでしょうか。

 

カテゴリー
情報リテラシー

そう言えば水道会社って、モノポリーの中でしか聞いたことなかったですね

水道法が改正されたそうです。地方公共団体が運営している水道事業の民間委託が、しやすくなったらしいです。住民の生活に不可欠な電気やガスは、昭和時代から民営化されていたのに、何でいまさらという感じが拭えないですね。

 

昭和の終わりから平成にかけて、電話・鉄道・煙草や郵便・高速道路など、数々の事業が民営化されてきました。それに水道工事は、修理会社でできるので、都市部は別にして、とっくの昔に民営化されているものだと勝手に思い込んでいたのでしょう。

 

民営化すると、地域ごとの水道料金差が拡大したり品質が低下することが懸念されるそうです。世界ではそんな例がたくさんあるそうです。本当にそうでしょうか。

 

地方公共団体と違って、民間会社は変幻自在です。合併を繰り返していけば、各地域の水道事業の特色を生かしながら、事業規模を大きくしていくことが可能です。事業規模を大きくすれば、水道料金や品質を守るために新規事業を展開していくことは、すぐにでもできそうです。

 

例えば、自然が豊富な水源の近くにリゾート施設や別荘地を併設して運営するとか、都市部のタワーマンションなどでは、昼間は太陽光発電によって屋上タンクに水道水を貯め、夜間に地下タンクに水道水を降ろして自家発電する省エネシステムを運営するとか、アイデア次第でいくらでも住民の生活を豊かにできるでしょう。

 

今でも日本には、それぐらいのポテンシャルがあるように思います。平成の初めからでも、民営化して置かなかったのかとも悔やまれますけれども、様々なインフラが進化を遂げている現在だからこそ行える変革もあるかもしれません。海外の水道会社に肩を並べるような日本の水道会社が現れることを、楽しみにしています。

 

 

カテゴリー
情報リテラシー

片寄りのある習慣、変える勇気を持ちませんか…

関西は右側に、関東やその他の地域は左側に、それぞれ片寄って立つ習慣のあるエスカレーターですが、元々は改札やホームに急ぐ人のために、駅のエスカレーターで始まった習慣だと、私は思っています。

 

少し前までは、デパートなどの商業施設のエスカレーターでも、どちらか一方に寄って立つことが習慣になっていました。電車に乗り遅れないように一分一秒を争って登り降りする必要もないのに、不思議なことをするものだと、時々思っていました。

 

最近では、危険防止のためエスカレーター上での歩行を禁止する傾向にあります。どうしても次の電車に乗りたい人がいる以上、駅での片側立ちは仕方ないと思える反面、その他の施設で片寄り立ちをしないで欲しい一番の理由は、エネルギーの無駄遣いです。

 

二人が並んで立てるエスカレーターに一人しか立たないと、当然のことながら、エスカレーターの輸送効率は半分になります。乗る人が居なければ、自動的に停止するエスカレーターまであるのに、こんな無駄遣いが、なぜ見逃されているのでしょう。

 

関西も関東も、大きな震災を経験して、切り詰める生活を余儀なくされてきたことがあるのに、こんな無駄なことが今でも続けられているのは不思議だと思いませんか。

 

エスカレーターの場合は、その様子を見て片寄りがあることを理解することができます。しかしながら、似たようなことが、目に見にくい形で行われていたら、どうでしょうか。

 

例えば、この夏に起こった北海道の大規模停電、昨年末に見つかった新幹線の台車の亀裂による運転中止、最近では免震ダンパーの出荷データ改ざん、どれも送電効率や輸送効率、営業効率に片寄りのある運営をしていたために、リスクへの対応が置き去りにされていた例です。

 

片寄りのある習慣が残っているのは、テクノロジーの分野だけではありません。今年になって、オリンピック選手やアマチュアスポーツのハラスメント問題や、選手に対してあまりにも過酷な大会運営など、成績や伝統に何らかの片寄りがあったために発生する人間関係の問題も、数多く明らかになっています。

 

皆さん、片寄りのある習慣が残っていると感じる当事者になったときに、その習慣を変える勇気を持っていますか?

 

できることなら、そんな勇気を常々奮い起こせる人物で居たいものだと、私は考えます。

 

カテゴリー
情報リテラシー

ネットで豊かに語り合いたい

人と豊かに語り合うことから、これからの世界をつくりたいとは思いませんか。

 

人類共通の祖先であるクロマニヨン人が生活していたのと同じ時代に、ネアンデルタール人という種も生きていたそうです。ところが、厳しい氷河期を乗り越えて生き残ったのは、クロマニヨン人だけでした。

 

なぜなら、クロマニヨン人は互いに身に着けた生き残る術を情報交換しあっていたからだそうです。つまりクロマニヨン人の末裔である私たちは、情報交換すなわち会話やおしゃべりが大好きなのです。

 

同じ会話をするのなら、人の非難や批判ではなく、できる限り良い話や役に立つ話題のほうが楽しいに決まっています。

 

人を非難したり批判するのは誰でもできます。なぜなら、人が経験する失敗の数は、成功する数よりも多いからです。”だからダメなんだよ”というような例え話は、無理して探さなくても誰でもすぐに見つかるからです。

 

大切なのは、失敗してもくじけることなく、成功を信じて続けることです。誰から何と言われようとも、確かな意思を持って自ら努力し続けることです。

 

ノーベル賞は、より安全に保管できるダイナマイトを発明したノーベルの遺言により設立されました。

 

ノーベルは当時の戦争によって大儲けしたため「死の商人」の印象が強く、その遺言さえも当初は信用されずに、5年の歳月とスェーデン国王の後押しを得て、はじめてノーベル賞とその授賞式が実現したそうです。

 

それから100年余り、ノーベル賞は人類の発展に貢献した人々に与えられる、名誉あるものとして世界中の人に認められています。

 

ノーベルを「死の商人」として非難するだけでなく、その遺志を実現させようと語り合って努力した人たちの手によって、ノーベル賞という人類共通の希望が生まれたのだと、私は思います。

 

ネットというメディアは、双方向のコミュニケーションツールです。人への非難や批判で炎上させるのではなく、人と人とがもっと豊かに語り合えるものに育てていきたいものです。

 

 

カテゴリー
情報リテラシー

スーパーハイビジョンで、世の中が変わるかも‥‥

BS4K・BS8Kが放送開始するそうです。それぞれの画質は今のテレビの4倍・16倍ということです。画素数で比較すると、4Kがスマホカメラの写真画像に相当し、8Kはフルサイズ1眼レフカメラの写真画像に匹敵します。写真画像の画質のまま、動画になるのですから、スーパーハイビジョンという呼び名も納得できます。

 

現在のハイビジョンは、およそ40年前に日本で開発が始まりました。当時の開発コンセプトは、”映画館の迫力をお茶の間で”であったと言われています。このためハイビジョンは、画面を横長にして、当時の映画フィルムと同じ解像度を仕様に盛り込みました。

 

つまり映画館で映画を見る臨場感をテレビで再現しようとしたのです。そのもくろみは成功し、ハイビジョンシステムはハリウッドの映画制作にも活用されて、世界中の人々にすばらしい感動を与え続けています。

 

スーパーハイビジョンとも呼ばれる4Kテレビは、ハイビジョンのさらに4倍の解像度を持っています。2012年のロンドンオリンピックでのパブリックビューイングから使われたそうで、2014年のワールドカップの時には『サポーターの息づかいが聞こえるようだった』という感想があり、その表現がとても印象的でした。

 

映像というのは、文字や音に比べて格段に情報量が多いです。たとえば、20年ほど前のパソコンでよく使っていた3.5インチフロッピーディスクの容量は1.44メガバイト。これにはワープロで作った文章ファイルを百ページ以上保存することができました。

 

音を保存するにはCDが使わており、その容量は700メガバイト。高品質な音源を1時間程度保存できます。つまり音は文字のおよそ500倍の情報量があるということです。

 

動画を保存するならDVDやブルーレイディスクが使われます。それぞれ4.7ギガバイト・23.3ギガバイトの容量があり、やはり1時間以上のテレビ放送品質の動画を保存できます。3.5インチフロッピーディスクの容量と比較すると、音を含む動画は、文字の3,000~16,000倍くらいの情報量があると言うことになります。

 

これだけ情報量が多いと、必要としている情報以外の無駄な情報が数多く混じっていると思われます。しかしながら私は、無駄と思える情報をたくさん含めることによって「ありのまま」の存在感が伝わりやすくなるのではないかと、思っています。

 

「臨場感」や「息づかい」と言われるものが、その存在感をあらわす何かであると、私は思うのです。画像による「ありのまま」の存在感は、人々を熱く感動させたり、深く興奮させたりして、前向きな気持ちをあふれさせる原動力になると、私は信じています。

 

すばらしい感動あふれる日々の生活。とてつもない希望に溢れた、なかなかの未来のように思えるのですが‥‥。

 

 
カテゴリー
情報リテラシー

インターネットって、なぜバーチャルなんですか?!

インターネットがバーチャルであると本気で考えている人が、いまだにおられます。元をただせば、インターネットがバーチャル空間に存在すると言われる理由は、インターネットの仕組みそのものに由来します。

 

インターネットというのは、さまざまな種類の回線を経由しているのにも関わらず、まるで一本のケーブルで接続されているように情報伝達できる通信方式を指しています。

 

つまり、送電線網や電話回線網のように、あらかじめ専用のケーブルを設置して送電や通信を行っているのではなく、既存のケーブルを拝借して「仮想の」通信網を構築することをインターネットと呼ぶのです。

 

このような経緯があるために、ネット⇔バーチャル(仮想現実)という考え方だけが残ってしまい、現実には一度も出会っていないにもかかわらず、ネットを通じて意見や想いを共有できるものが、インターネットであると勘違いされてきたように思います。

 

スマホやタブレットPCがこれだけ普及してきた現在、もはや「ネットはリアル」だと考えを改めないと、不自然なことが増えてしまうのではないでしょうか。

営業マンは、毎朝のメールチェックから仕事が始まり、インターネットで訪問先への経路を調べるのが当たり前です。インターネットは直接、リアルなビジネスへと繋がっているのです。インターネットビジネス関連の社長が、大盤振る舞いをしてテレビで紹介されるのも、もはや日常茶飯事であることにも繋がっています。

これとは逆に、インターネットがなかった時代でもバーチャル風なおつきあいは、いくらでも存在していたと思います。手紙や電話だけで成り立つ人間関係も盛んであったはずです。たとえばペンフレンドがそれにあたるでしょうし、日本の場合は、年賀状や暑中見舞いなどがあります。

 

インターネットの匿名性が問題であると考えるお方も、おられるでしょう。しかしながら日本では、ずっと以前から、匿名のおつきあいなど、数え切れないぐらい存在します。接客業で使われることの多い源氏名も、お相撲さんの四股名も、落語家の亭号や歌舞伎界の屋号も、全て本名を秘匿した、匿名のおつきあいとなります。

 

さらに、古代や中世の高貴な人々は、本名を隠して「いみな」というものを使っていたと言います。こうなってくると、ハンドルネームやニックネームで呼び合うインターネットの世界は、古式ゆかしい伝統に基づいた豊かな人間関係を育む場所ということになると言うように、私は考えています。